3 裁判の創造性 (『法律学楽想』p252〜253)
徹底して依頼者の視点に立ち、骨の髄まで依頼者の気持ちになって主張し立証を尽くせ。判例がとか、裁判所はとか、相手方の主張はとか、証拠が、というのはとにかく一度全部無視して、法文を徹底して依頼者の立場を擁護するために生かす工夫をし、証拠を集めよ。
依頼者の漁師が土地を一時的に物置場として貸す約束をした。ところが、物置場として土地を貸す契約書がいつの間にか化けて地上権を設定されている。相手は地面師だ。依頼者は絶対に委任状を書いたことはないというが、現に自筆で署名し実印を捺した委任状が存する。ボンヤリしていて忘れているのではないか、あるものは仕方ない、と思いながらも依頼者が絶対に委任状を書いた覚えはないというのでその主張を維持しておいた。尋問の打ち合わせで署名を確かめていた仁平弁護士が契約書の署名に似すぎていると言い出し、委任状の署名をお日さまの方にかざして合わせた。
何とピッタリ一致する。原本を見ると複写になっていて契約書の下に委任状を置いて署名を作出していたのだ。勝つ筋を負けると思って苦しんだのがようやく逆転勝訴に至った。頼りなくても、不自然とみても依頼者への信頼大切と心に銘じたことであった。
判例がどう言っていようと、主張、立証責任を裁判所がどう判断しようと依頼者の立場に立ち尽くして判断し行動せよ。そして専門職としての依頼者の視点と怨念とを補充し拡大してこれを支える発想を行い、そして類例を集めて提案せよ。
判例を金科玉条としていては法の進化はあり得ない。法実務者として法を一歩でも二歩でも進めるためには、そしてその進め方も法廷という小さな箱の内に閉じ込められて行うのであれば、社会の実態を余すことなく裁判所に提示して適正な法の運用を迫るのは弁護士の務めである。事なかれ主義に陥った判例至上主義の訴訟運営は、法廷を退屈な悲劇あるいは結論のわかりきった探偵劇にしてしまって法廷が沈滞する。法は生き物だ。法廷は活劇だ。君は法廷のストーリーメーカーでありプロデューサーでありアクターなのだ、作並びに演出、主演という奴だ。生き生きとした、TVよりも興奮する法廷劇に仕立てあげて自らも生き生きとした生涯を送ろうではないか。古い判例を墨守していては、司法も亡びてしまう。不易流行の法解釈で問うたように不変の価値を墨守すると共に不変の価値を守り抜くために、常に流行即ち変化に対応する攻め、墨守に加え「墨攻」がなければ亡びてしまう。
新聞紙上を賑わす新判例とて弁護士が主張しない新判例などあるはずがない。「そんな常識外のことなど笑いものになって出来ない」と言ってはならない。法の世界は「昨日の常識は今日の非常識、昨日の非常識は今日の常識」になる。尊属殺の加重刑は人倫の根本と疑わなかったこと、そして日照権などといい加減な小理屈をこねる弁護士がいると笑いものにしたのはつい昨日のことではないか。今では尊属殺規定は廃され、日照権は認められている。身近な人々の悩み苦しみを全力で法廷にぶっつけて行くのが弁護士の使命だ。
ただかく言うは判例を無視して依頼者の利益を害せよといっているのではない。あくまでも見通しは立て、落としどころを見出す必要を否定していない。それこそが実務だ。