「我惟う故に我在り」

 現在の法体系の原型は、フランス革命の作り出した法体系である。
 このフランス革命の理念に代表される近代精神は、諸君が世界史で学んだとおり、ルネッサンスが母胎である。

 ウィクリフ、フスの宗教改革の失敗を経て、
 印刷技術の進歩と生産力の増強に支えられたルターの宗教改革の成功があり、
 旧秩序のほころびと平行してルネッサンスの人間回復の叫びが起こることで
 その人間中心の世界化がフランス革命の思想的な源なる。

 ルネッサンスに始まる近代精神の哲学的表現は、デカルトの

 「Cogito, ergo sum 」(我惟う故に我在り)

 という人間の精神活動こそがもっとも大切であるという標語に集約される。

 精神活動の所産として秩序も存するのであって、中世の神の支配、封建秩序の硬い殻を破る人間精神の自覚は、
 神の支配から自由であった「古代」に還れ、というルネッサンスの標語に既に胚胎していた。
 古代に還れば、法も秩序も神ならぬ人間の意志が決めていたのである。
 こうした考え方が17世紀にはロックの社会契約説を生み、
 18世紀には啓蒙思想となってフランス革命に思想的支持を与えることになる。

 何といっても、日々の生活や生産活動が自分の意志という精神活動によって決められ、
 神とその代理人である教会、そしてその使者としての国王、諸侯に拘束されたくないということである。
 その背景には、農業を基盤とする低い生産性の生産構造と結びついた身分制を中心とする教会と政治権力とが
 技術革新に支えられた高い生産性を持ち、豊富な富を獲得した商工業市民の活動の障壁になってきたことがある。

 フランス革命は、現象的に権力闘争・階級闘争として顕れているが、
 その基本は民法財産の処分権が自分の意思にかかるものでありたい、という切なる願いにある。
 成功も失敗も自分の精神活動としての意思決定の結果であれば、巨万の富は名誉と誇りであって、
 単なる「生まれ」以上のものである一方、失敗や破産も甘受し、更には自らの意思決定の結果であれば
 牢獄さえやむなしとしとして、人間の意思活動を法的責任の終局的根拠としたのである。

 つまり、フランス革命は、人間主体の法体系を構築したといえる。

 物への支配としての「所有権の絶対」
 意思という人間の精神活動にその権利の取得、喪失をかからせようという「契約自由」
 そして、過失なくして自分が損失を被ることがないという「過失責任」

 現在我々が民法の三原則と呼んでいるものの原型はフランス革命にさかのぼり、
 さらにその母胎はこの「我惟う故に我在り」という精神活動絶対の近代精神にある。

 この民法上の大原則、即ち経済活動の自由を維持し、保障する公法的枠組みが、
 憲法上の人権宣言であり、三権分立であり、刑法上の罪刑法定主義なのである。

 理念型としての人間の精神活動の自由は、現実の社会経済上の実態にそぐわなくなりつつあり、
 現在、多くの法分野でその修正原則を必要としてきているのではあるが、
 基本としての現在の制度の枠組みはいまだ変わっていないのであって、
 法を学ぶとき、この視点を見失ってはならない。

 ただ、人間の意思という生身の、いわば動物としての人間の意思尊重から出発した近代国家が、
 法人という自然人を擬制した巨大な実態を作出し、その法人=会社が、領土国境を超越した国家、
 あるいはそれ以上の存在となって、人間意思の絶対という幻想をテコに取引社会を支配しつつある。

 今、フランス革命を原点とする市民社会が肥大化して、
 再び人間性の抑圧の現実を生みかねず、再革命すら呼びかねない。

 生産力の質的増大を破壊する革命でなく、より公平の観念を採り入れて
 近代法が目指した抽象的な権利主体としての「人」から、
 より具体的な「組織における人」を想定して、いわば新たな形態の身分社会の存在を認めて
 誰と誰が何についてどのような契約をしたかという、
 主体、客体、契約形態というよりきめ細かな、
 より合理性をもつ法律要件が生み出されてくる筈である、と予想しておく。