司法修習生へ

(著書「法律学楽想」より抜粋

一、修習生への希望

1、修習心得〜起案に明け起案に暮れる

 厳しい試験勉強を乗り切った者の集団である司法研修所は、我が国の最高の知性を備えた者の集まりの一つに数えてよかろう。諸君がこの晴れがましい集団の一員に選ばれたことを共に喜びたい。
 諸君は、この晴れがましさを如何にして得たのだろうか。バラ色の大学生活だけで得られるものではあるまい。それは目先の欲望を制御して唯ひたすらに机に向かい教科書を読み又事案の分析に取組む克己の生活があったからに違いない。
小学校のときの頑張りが中学での、中学の頑張りが高校での、そして高校の頑張りが大学での「集い結べるよき師よき友」との豊かな出会いをそれぞれ約束してくれたはずである。その年齢そのステージにおける研鑽努力が、次の晴れやかなステージと語るに足りる仲間とを提供してくれるものだ。
 とすれば今、また研修所における研鑽努力が次のステージの豊かさを約束してくれると思う。しかも今(研修所)はプールにおける水練であるが次のステージ(実社会)はプールではなく、塩素で消毒された綺麗な水でもない。洋々たる大河での川の流れや荒海での潮の動きは計り難く、よほどの泳ぎ手になっておかなけれぱ溺れてしまうだろう。今必要なのは何よりも泳力(知的腕力、即ちより多くの情報をより速く、より正確に処理できる力)を鍛えておくことである。コロッケの歌ではないが、
 
 今日も起案。明日も起案、起案、起案、起案、起案。


起案に明け起案に暮れるかもしれない。しかし、今鍛え抜いておかないと次なる実社会のステージにおいて大変な困難にあうだろう。諸君が知性で人生の勝負をかける途を選んだ以上、その知性の練磨の手抜きは自殺行為である。従って「求めて起案やるぺし」である。たった司法試験に合格するだけにどれだけ大変な思いをして勉強したか思い返して欲しい。今度は社会の実の用に役立つ勉強、即ち他人がお金を支払ってくれる勉強なのだ。その「金にする勉強」が半端ですむワケがあるまい。更なる勉強を心掛けられるよう期待して止まない。
 しかし、単なる知性のみの練磨では足りない。実社会では品性も間われよう。更に品性を維持しつつ生身の生活を支える糧、即ち収入を得るという生々しい活動もしなければならない。又、冠婚葬祭をはじめとする膨大な雑用も社会生活にはつきものであり、これもこなさなけれぱならない。つまり全人格の練磨が求められるのだ。

2、実務修習−実務修習の心掛け

 武者小路実篤の絵皿のセリフではないが「我以外皆我師」の心掛けをすすめる。
 弁護士になったらもう二度と再び裁判所の「合議」に参加することはない。現場の裁判官が何をみて何を感じて判決を書くのかどんな議論や会話をしているのか仲間として語りかけ見せてくれることはもうあるまい。裁判官、書記官、事務官、技官の人間関係、職務関係ももう内側からみせてもらう機会はない。
 検察庁だってそうだ。取調の困難さを骨身にしみて感ずることはもうあるまい。
当時所長や検事正の講話や日常の会話こは必ずといっていい位「僕らが試補(というのは今の修習生のことだ)の頃こう教えられた」と思い出話に事よせて仕事のやり方や戒めを教えられた。そのときは試補の頃の話ではなく今の用に立つ話をして欲しいと思ったりしたが司法の世界に入ったときの端々しい感性で得られた生活信条が定年を迎える頃まで血肉となって生き続け、語りかけて下さったのだと思う。そして今、実務の隅々まで修習中の教えに従っていて、指導官の発言を理解している。
 私は弁護修習をふくめ怠けたツケを今生涯かけて支払っているような気がするが、修習地の“前橋”という地名を聞くだけで心躍る。実務修習の悔やみ多くもまた豊かだった生活を思い出してまさに法曹としての故郷は実務修習地「前橋にあり」と思う。
 かつての旧陸軍の見習士官扱で大切にもされようが、身分も最も低く実務の出来ない「みそっかす」の自覚をもって職員の方々はじめ全ての人に教えを乞われたい。

3、事務所の選び方について

【その一】

@ 既に心に期する事務所があるならば一番だ。それが良い。
 しかし、迷うことがあったら教官や、大学の先生、先輩方によく選定の基準について遠慮なく相談してほしい。私が修習生のとき基準の第一は事務所の客筋がいいかどうかだと教えられた。客筋が良いということは受任する事件の筋がいい、ということでもあろう。大切なことだと思うが、事務所の客筋の良し悪しを知る方法もこれまたむずかしい。評判をきく位しか思いつかない。客筋の話はそれとして、ボス乃至事務所の知的、技術的水準如何、自分がやりたい専門の仕事かどうか、弁護士会活動について自分の夢に合うか、時間的拘束はどうか、ボスの思想信条は自分に合うか、品行、人物見識が語るに足るか、事務所の物的・人的設備如何、掃除は行き届いているか、事務員は礼儀正しいかどうか、ペイ如何等など検討していくと、そんな絵に書いたような理想の事務所なんかなかなか無いのかも知れない。
 しかし、何より大切なのは自分がどんな弁護士になりたいか、そのための修業の場として相応しい事務所かどうかということが基準であろう。よく言われる「イソ弁」というのはボス弁との関係が委任とはいいながら、時間的拘束や事務上の指示においてゆるやかながらも雇用的側面をも持っているだろう。しかし、何よりも大切なのは昔ながらの徒弟制度、弟子入りという側面が大きな比重を占めていることである。
 
 法律上の紛争というのは生活事実を要件事実に当てはめて解決するのだから、一面では弁護士修業を積めば皆同じ結論になるはずで、万人が認める法的常識と言うものもあるはずだ。他方では依頼者の個性と相手方、事案の内容、状況、そして、法の運用の仕方・見方の違いで解決の方策は千差万別でもある。これら全てについて師と仰ぐに足るか否か、自分の感情や感覚を逆撫でされたり、困難な状況になっても辛抱して修業ができるかどうかが何より大切ではないかと思う。

 その判断のための情報の取り方だが、狭い法曹界、直ぐに分かりそうなものだがなかなか得られない。大学、期別、修習地、会派(派閥)、出身地、会務(所属委員会など)などが一つの目安であろうが、手近にいる教官の活用も意味があろう。裁判所・検察庁は共に割合に弁護士の評判をよく知っているし、弁護教官も派閥からの推薦で入っているので会内の状況には比較的詳しい人が就任している場合が多いからである。「弁護士大観」の最近号をたよりに、各種委員の経験者なら弁護士会でその委員名簿をしらべて知った弁護士を探して訊く手もあろう。
 あれこれ情報集めて考えるのも一手だが大宅壮一のことばを借りると「男(女)の顔は履歴書である」から会って判断した人品骨柄が最大の情報であってそれが読み解けないならその不明を恥ずべきである。
 
 あれこれ言ってはみたが事務所をきめるのは女房や亭主をきめるときと同じ基準でよかろうかと思う。構造的にもよく似ているからだ。男性弁護士の場合だが女房を選ぶときは、女房としたからには彼女から少しばかりの小遣いを与えられ、昼夜を分たず働いた分全部とられて、子供を盾に好き勝手言われ放題でも、辛抱する覚悟が要る。イソ弁だって、わずかばかりの弁当で(もったいないようないい弁当であればなお結構だ)働いただけ全部ボスにとられるのだから働くだけ全部もっていってくれて結構といえること、そしてこの先生の我儘なら聞いてやるかと思えることかなと思う。それでこそ修業の実もあがろうというものである、斜に構えて師匠たるボスの悪口言っているくらい不毛なことはあるまい。

A 成功したある政治家の話を読んだことがある。彼は伝手(ツテ)をたよって当時の満鉄総裁に会いに行き就職を頼んだ。「ところでうちに勤めてどうする」ときかれるので、実業で大いに儲けてそれを資金にして政治家になろうと思うと答えたところ、「それならばお止めなさい、金儲けだって男児一生の仕事だ、政治をやるのなら今すぐに政治の修業にはいりなさい」といわれた。そこで日本に帰りすぐに政治家の秘書になって後に大成されたということであった。
 幅広くいろんな勉強をしたうえで専門弁護士になりたいという人もいた。そんな迂遠なことをせず自分のなりたい弁護士像に向かって邁進し努力すべきだろう。企業法務をやるにしても市民事件をやるにしてもそれぞれに仲々に奥は深い。直木賞をとって都知事とか芥川賞をとって大臣から都知事というスーパースターもいるにはいるが、例外だと思う。そしてトロイアを発掘したシュリーマンのような異能の人だと思えないなら直ちに専門に従事するのがよかろうと思う。

B インターネットが普及しそうな雲行きである。弁護士広告制限的ながら解禁の方向とか。ホームページもふえよう。“弁護士広告”は依頼の手掛りの為だろうが修習生の事務所選択の手掛りともなろう。時代が透明性を増して来そうな様子はうれしいことだが、それだけに又諸君はその情報を読み解く厳しさを求められくるのだと思う。

【その二(弁護士と政治・宗教について)】

 私は政治的思考としては英国の保守党、米国の共和党的な小さな政府志向である。支持政党を自由民主党としている。最近制度疲労を起こして柔軟性を欠き気味で何時までこの政党があるか分からないが、我が国の政党としては教条的な側面が比較的小さく、幅広い思考の人が寄っているので多くの問題点を抱えながらも、よりましな政党として支持している。
 しかし、他党あるいはそれを支持する友人、知人とも折り合いが悪いわけではない。何よりも弁護士業務のなかに政治や宗教が入ってくることは、社交においてと同様、極力避けたいものだと思っている。
 郷土の大先輩(故)佐々木正泰先生には学生時代から御指導を賜っており、登録後も何くれとなく面倒をみていただいた。先生は熱心な社会党員で、季節の御挨拶もハガキいっぱいに小さな文字で切々と社会党(現・社民党)の政権を訴えておられ、弁護士会会内で知られた存在のようであった。あるとき何の会合であったか御酒を少し過された巨漢(故)長野国助先生を、小柄の佐々木先生と私で東中野の御自宅に肩を貸してお送りしたことがあった。その折、長野先生が往々木先生に「弁護士は政党に入るぺからずだ。法と良心に従って法を運用する者が政党の綱領に拘束されて事に当たっては運用を誤る。」と諭され、佐々木先生も反論を試みて居られたが、両先生ともに大分お酒がまわっていたこともあり(私もそうですが)、その論戦の詳細は記憶にない。
 ただ、如何なる政党に所属しようと支持しようと、弁護士業務の筋だけは謬ってはならないのだ、その限度で政党への帰属も支持も「弁護士としての良心の範囲内で」という留保条項がついているのだ、と長野先生の教えを翻訳している。
 
 私の家は浄土真宗であった。爺の唱える「南無阿弥陀仏」の背中を見て育ったのだから、他力本願に限りない愛着をもつ。
 子供の頃、太鼓を叩いて僧衣で托鉢に来ていた日蓮宗の「南無妙法蓮華経」が怖かった思い出も、今となっては自力本願の力強さに映る。カトリック教団の経営する中学に入学して生意気盛りの中学一年生から神の存在を説かれて先生に喰ってかかり先生と喧嘩してすごした。その時にはキリスト教に反発しても、「公教要理」を叩き込まれて、お祈りや賛美歌を覚えさせられた。お勉強は真面目にやったから覚えたのです。今はすっかり忘れてしまったが、聖人の話などもふくめて今は懐かしい思い出で、それなりの親近感はある。
 教典のない神道を宗教というかは議論のあるところだが、神とは桟能であるという説明は説得的である。天神さまは云うに及ばず、氷川神社だって南洲神社だってある。神になり得るのは神道だけとするならば俺だって神たるまで頑張って神を目指すか。風土に根ざした日本古来の神道も又捨てがたい。

 私は政治的信念もある傾向をもちながらも自分流ならば、宗教的信念は更に自分流であって、既存の多くの宗教には親近感を持ちながらも、自分自身の宗教性はその傾向さえも定かでない。
 若い諸君が事務所を選ぶとき、弁護士業務を重視の第一とすべきと思う。行動は然りとするも心情的には政治ないし宗教的信念を優位におくのならば、その志を共にする事務所を選ぶべきである。政治的、宗教的信念が弁護士業務においても一歩を譲り得ないのならば、そのことを明らかにして、信条の異なる弁護士と共に業務ができるかどうか議論を重ねたうえで事務所を決められることをすすめておきたい。
 社交の席で政治と宗教の話題はタブーであるとされているのは、相手の生活感情を刺激して不愉快な思いをさせると同時に自分も不愉快になり、社交の目的に反しあるいは目的を害するからであろう。信念の違いが日常のことに色々な影をおとす。ボスの発言の端々が疎ましかったり、指示自体を政治的あるいは宗教的利益の遂行のためと感じ、自分の政治的宗教的目的への侵害と感じられて、ボスの存在そのものが疎ましくなったりするおそれがある。又、ボスの方からしても勤務弁護士の行動が指示と異なった時、それが政治的あるいは宗教的思惑のせいと誤解する場合もあったりして、イソ弁の処置や行動が反抗と、あるいは利敵行為とみえたりして誤解は更なる誤解を生み人間関係を抜き差しならないのもにしてしまう怖れがある。事務所選びには政治・宗教についても意を用いることをすすめる所以である。

4、弁護士道の七灯

 アメリカの司法試験科目には法曹倫理があるときく。我が国の司法試験にも、法曹倫理科目があった方がよいと思う。
 そういえば公務員にも倫理に関する試験がないようである。倫理は知識ではない。行動である。試験勉強として覚えても意味がないという者もある。しかし、行動を選択するときある準則を知識としてもっているのとそれがないのとは大違いで、知識としてでも知っていればこれに従い易いのではなかろうか。近頃、弁護士も研修が義務づけられてきたとかで講義録を読ませてもらって、大いに意を強くしているが、なお制度的には更に一考を要することと思われる。ただ、法律家たる者、自主自律、自ら学び自ら律するべきことでもあろうかと思う。弁護士会などの出している各種のテキストをよく読み込んでよく考え、修習時代に自らの法曹としての行動の準則を確立して欲しいものと思う。
今でも研修所の授業のなかに弁護士のみならず法曹倫理も存し、そこで標準的なテキストも示されると思うが、私が修習時代にすすめられて後に読んで感動したのは、イギリスのパーリー判事の「弁護士道の七灯」(「弁護の技術と倫理」桜田勝義訳日本評論社)である。
 研修所で、萩原太郎教官から法曹の慎むべき徳の第一は誠意であると、この本を必読書と勧められた。
 弁護士の守るべき徳目は多岐に亘ると思うが、此処では誠実、勇気、勤勉、機知、雄弁、判断、友情の七徳目を掲げてある。各徳目につきパーリー判事の説くところは、直接テキストに当たってもらう方が新鮮でもあり迫力もあるので、此処では第一徳目の誠実について私なりに感じていることを記してみる。

「誠実」
 第一の徳目を「誠意」と掲げられており、何か眠くなるような徳目だなあ、もっとカッコイイやつはないものかと当時は不足に感じたのを思い出す。

 研修所の修了講義のとき、萩原太郎刑裁教官がケネディコインを示されて「誠意は証明せられなければならない」と説かれた。法曹にとって最も大切な徳は「誠実」であると、講義のコマの殆どを費やされた、教官の言っておられることがよく飲み込めず、訳の分からん徳だなあ、もっと格好良い勇気とか決断とかではないのかと不満に思い理解出来ない不安からケネディコインを求めて英文の“Sincerity must be proved.”であったか、何のことだろう、どんなことだろうとコインをひっくり返しては眺めてみたが、分からないままいつの問にかコイン自体も失せ文言もおぼろになってしまった。そして、誠意の意味するところが分からないまま弁護士になって仕事をしていた。
 
 あるとき、成るほど、誠意とはこのことかと気づいたというか自分なりに理解した。即ち、一枚の委任状に着手金を添えて依頼をうけると、もう誰も監視していない。手抜きは弁護士としての自殺行為ではあっても弁護士の腕様々だ、俺の腕こんなものだと言い逃れをするならば、如何ようにも言い逃れができ、如何ようにも怠けられよう。事件は一つだけ受けているのではない。この着手金にしてこの事案でかけられる時間はこんなものさ、と考えられもしよう。休息も慰安も許されて然るべし。その時間を削る必要があるものかとも。
 しかし、どんな事案であれ、どんな額の着手金であれ、依頼者は弁護士が誠心誠意事案の解決に努力してくれると信頼して任せたのである。依頼者は自分で、あれこれ調べ考え、手に負えないからこそ、事案の解決能力をもっている専門職業の弁護士に依頼したのである。個人的信頼と職業的信頼とを重ね合わせて信頼してくれたのである。これに応えるのは、契約上の義務であり且つ職業的倫理である。
 彼は、日夜事案の解決に悩み苦しんで解決策を模索したのであろう。彼なりに事案と制度の枠組みについて調ぺもし、調べようとしたが果たし得なかったのであろう。とすれば、少なくとも自分が依頼者本人であったならば実施したであろう調査を行い、その結果採りうると結論づけ、実行したであろう諸方策を全て試みるのは最低限の義務である。そして更になお職業上の信頼にこたえて、善良な管理者の義務を尽くすこと、これが「誠実」の徳というものであろう。

 委任状一枚の信頼で相手方と接すると、接触面は依頼者より相手方のほうが大きくなり、相手方が豊富な物量−情報で依頼者の非を鳴らしてくると「ウン、そうか依頼者の方が悪いか?」と呑み込まれそうになることがある。こんなとき、不足した事情聴取を補って、更に依頼者に反論の事情を聴取し常に依頼者の立場に立つことが大切で、これが誠実の徳と言うもので教官が語られたのはこのことかと納得した。

 実務庁の前橋地検で斉藤正吉検事が「取り調べをしていると情が移るだろう。取り調べてきて、『良い男だなあ、世の中にこんな良い男がもう一人といるだろうか』と惚れ込んだ被告人に平然と死刑を求刑して、検事も一人前だ」と言っておられた。被害者のそして公益の代理人としての検事の立場を職務のうえから訓されたのが、取り調べ修習という体験から実感をもって聞けたのが思い出される。
 弁護士とて同じことである。斎藤検事が公益の代表として私情を捨てて職務を遂行することの正しさを力説されたように私情として相手方を理解しても常に依頼者の立場に立ってその信頼に応えること、これを誠実というのだろうと思っている。かくいうは、事案の本質を見極める努力を否定するものではない。事実関係について認識の違うところは依頼者によくただし、事案の正確な認識を得なければ、その事案の妥当な解決は得られない。
 常に依頼者の立場に立ちながら公平妥当な解決を目指し「先生が入ったのだから安心だ」と相手方からも安心されるという社会の信頼が得られるような仕事をしたい。
 時々契約や示談で「弁護士さんが仲に入ってきめたんだから間違いありません」といはれることがあり、弁護士への世間の信頼とうれしくきいている。それで良いし、正しいと思う。
 ある離婚事件で妻の代理人として夫と折衝していたのだが調停の席で「弁護士というのは依頼人の言うことをきいて交渉するものだと思っていたら、先生は私の立場も分かって下さったので調停案どうりで結構です」と突然私への信頼を夫が強調するので妻からかえって不信の目で見られて困った。公正妥当な解決を図ることは弁護士として当然のことながら依頼者の利益の為の解決であることを理解してもらうことも大切である。

 パーリー判事は職務遂行上の誠実を強調しておられる。自分なりの「誠実」についての所感は委任状(弁護人選任届然り)一枚に生涯をかけて恥じないことこれを「誠実」といい法曹の徳目の第一にあげられることに今は不満がない。

5.すこしばかりオドシを付け加える

 司法試験の合格者数増員は経済界の要望によるもので、弁護士費用が高いので費用を下げさせるために弁護士間の競争をさせるためだという噂がある。
 アメリカ旅行に行ったとき離婚手続を安価に引き受けるという新聞の三行広告が多く、「DevorseOO$」とニューヨークタイムズにある三行広告の多さに接したときの悲しさが忘れられない。
 また救急車を追いかけて受任を求める弁護士がいるとかで、これをアンビュランスチェーサーというとか。アメリカのことではあるまい。弁護士間の競争が激しくなるならば、すぐそこに我々の現実の姿があるのかもしれないのだ。
 最近ある病院の待合室で、老婦人を紳士二人が両脇から囲み、委任をして法律的にやることが如何に有利かを説得している光景に出合った。説得している紳士が事件屋だとすれば食い物にならなければいいが、もし弁護士だったとすればあまりに物欲しすぎると思いつつも、介入する方法もなく不快な気分でその席を立った。
 また、女性側から受けたある離婚の相談で、夫たる人、弁護士二人を雇ってそれぞれ別の場所に事務所を構えサラ金問題の処理をさせていたのだが、その弁護士がやっていることが弁護士会にばれて馘になったので仕事が行き詰まって借金がかさんで・・という説明を受けたことがある。真偽の程は明らかではないが、弁護士に対する嫌な噂には間違いない。そんな噂の対象とならないためにも、修習の一日一時間一分を惜しんで研鑽に励まれんことを期待したい。
 新聞、週刊誌に弁護士懲戒の記事の多い昨今、被懲戒者の法曹倫理の欠如の然らしむるところもあろうが、腕の悪さからくる稼ぎのなさにいたたまれず心ならずもそのような状態になってゆかれる方もあろう。
 今日只今の楽しさにおぼれて漫然と日を過ごしたり、営業にばかり目を向けて己を律しないとそこに明日の我姿がある。

二、勤務弁護士への期待

 私が今、若先生に期待することの一端
弁護士は世間修理工であり、イソ弁たるもの給料は仕事と心得て腕を磨き、ひたすら依頼者の為に働け。
 と語りかけておく。


1. 世間修理工(リペアマン)である

 自然人即ち人体の故障を病気という。これを治す者を医者という。法人即ち企業の故障を経営不振という。企業の医者は経営コンサルタントという職業があるそうだ。ガリバーキリンを今や抜く勢いのアサヒがスーパードライをひっさげて切り込んだ頃、当時アサヒの専務であられたかと思うが、中条高徳氏の講演をきいた。良い人材、高い技術力があるのに何故実績が上がらないか、企業の病理を治す企業の医者である経営コンサルタント、マッキンゼーに診断と治療を依頼して今日を得たと云っておられた。

診断結果から、

@ 高い技術力がセクショナリズムで生かされていない。ということから技術者の多くをドイツに出して発想を拡げて製品開発に向かわせようということになり、

A 更にその出来た製品の品質を維持するため、損を覚悟で賞味期間をすぎたビールは全部回収し代金を返金して品質を維持し、

B 同時に営業経費の特化集中を図り、資本力でキリンにかなわないから一年分の広告費を一ケ月に全部集中する作戦をとりビール需要の生ずる春、沖縄から北海道まで桜前線の北上に合わせて集中させた。

 その結果、技術者は頑張って素晴らしい商品をつくり、本当に返品をうけ返金したので販売店が本物だと驚いて、販売に力を入れてくれ、そこに広告を需要期に合わせて投入したから爆発的な成功をおさめた、とのことであった。
 経営コンサルタントなんて公認会計士が数字をながめて賢らなことをいっているだけではないかと誤解していたのだが、まるで毛沢東の作戦のように発想がのびているではないかと驚いた。
 我々弁護士は法と取引実情に通じて法主体そのものの問題点にも会社法、税法等を通じいささか理解をもっている。企業の医者としての経営コンサルタントの仕事もある程度の高度さと適用範囲では傍目八目で講釈出来ると思う。しかし、弁護士というのは法主体間の関係の故障即ち係争の解決をするを本務としている。医者や経営コンサルと同じように診断と治療という手法を事案の分析と法の適用をして具体的手続をとることで解決に至るのであるから、恰好をつけて人間関係の、即ち社会の病理を診断し治療する医者ともいい得よう。
 白衣を着てスマートなお医者さまという趣よりもスーツという作業着で裁判所中心に街をとび回っているさま、は社会のリペアマンという方がふさわしかろう。とすれば弁護士は社会即ち世間修理士ともいえようかと思う。

2.給料は仕事だ

 妻の母方の伯父に長谷川悦策(故人)という人がいた。
 新潟・塩沢の出で家が貧しく口減らしのため小学校を終えるとすぐ東京・日本橋の紙問屋に奉公に出されたそうだ。
 妻と結婚して伯父に挨拶に伺ったとき聞いた話だ。

 休日と小遣いがもらえるのは盆と暮れの二回だけ。朝暗いうちに起きて夜店を仕舞うまで働きづくめ。小学校をおえたばかりの子供に紙は重すぎ腰の痛さに堪えたという。冬の朝の水まきに手がかじかんだと苦労話をきいた。住込みだから飯にだけはなんとかありつけるのだが働きずくめで当時でさえ一銭の給与ももらえないのは悲しかったという。そこで伯父は、そうだ、これで仕事の手を抜いたら一生後悔する。仕事を覚えさせてもらうことだけが給料だと思って一生懸命に働いた。

イソ弁をしていた僕に、「修業しているそうだが何もかも忘れて一生懸命働きなさい」と助言をされた。
 伯父は後に紙問屋店をもち成功し、妻の母も伯父を頼って上京してきたとのこと、当時は既に引退し悠々自適の身であったが痛く感じ入った。
 「立派な伯父さんですね」と学生だった妻の弟(長谷川泰造弁護士)に語りかけたところ身内を褒められた照れ隠しだったのか、生意気盛りのなせるワザだったのか「はあん、またあの話にひつかかりましたね」という。いつも聞かされてうんざりしていたのかもしれない。
 確かに老人の話はくどかったりするが、老人の自慢話には仲々味のあるものがある。熱い話は熱く聞きたいものである。しっかり修業に励んでくれ給え。私も今や小なりといえどもボス弁である。だからといってイソ弁をうまくコキ使ってやろうと思って語りかけていると誤解しないでほしい。修業中にしっかり働き勉強して修業しておかないと私のように経験三十有余年を閲してなお端弁護士、半端弁護士に甘んじて「何かの価値を求めて」というよりも目先の飯を喰わんが為にひたすら老躯に鞭打って働きづくめという弁護士人生になりおわる。殷鑑遠からずだ。

3.弁護士の正しい生き方は依頼者のために己が人生を捧げ尽くすことである

 近頃男の正しい生き方は女の幸せのために己が人生を捧げ尽くすことである。というのが私の口ぐせである。すると「先生、何歳位のときそのことに気付かれましたか」とか、逆に「女の正しい生き方も同じことではないですか」と同感される女性もいる。しかしお世話になっているある方の奥様からは「私はそんな調子のいいことを言う人は絶対に信じない」と絶交宣言をされたり、色々である。
 男の正しい生き方、弁護士の正しい生き方を共々に説いたところ、ある修習生に男としての生き方と弁護士としての生き方とが衝突したらどうするのかと聞かれた。若し、尽くすぺき女性が妻であったならこれは決して(理念的には)衝突しないのである。夫が依頼者に誠実な仕事をすることは妻の誇りとなり、妻の幸せへの奉仕となるだろう。夫と妻を置き換えても真実のはずである。
 かく言うは、百八つもあるというボンノウにさいなまれながらのこととは御理解を願っておく。「言うは易く行うは難い」かもしれないが「形式は内容を規制する重要な要素」とか。言行不一致のそしりをうけないための心掛けとして旗幟鮮明にしておこう。
 重ねて云う。弁護士の正しい生き方は依頼者のため己が人生を捧げ尽くすことである。男の正しい生き方が唯ひたすらに女の幸の為に尽し女から「愛される」という見返りを求めてはならないように(愛されるにこしたことはないが)依頼者には費用、報酬以外の何物も求めてはならない。彼には彼の人生のポリシーがある。