サイパン島 玉砕の歌

平成20年2月23日,三浦和義氏がサイパン島で拘束されたそうだ。
ある小さなパーティーで三浦氏に会い,法律をよく勉強して居られ,鋭く発想力のある印象をうけました。

そんな折,2月28日,夫をサイパンで失った御婦人の話を伺いました。
御主人は出征の時,「長くても3年だろうから」とその間の土地の管理の仕方を慌しく妻に告げて出征し,サイパン島で還らぬ人となられたそうです。
「帰ってくるつもりだったんですね」と御婦人は申された。
「戦死の公報では昭和19年7月18日となっているけれど,本当は7月7〜8日だと思います。その時,私はこう・・・分りましたもの」と胸に手を当てて居られた。サイパン島陥落の日は,昭和19年7月7日とのことであります。
たった2年半の結婚生活で授かった娘2人と聖地サイパンを訪ね,案内の説明に涙の枯れることはなかったとのことです。

昭和20年敗戦の夏,私は小学校3年生であった。
ぬかるみの中,足腰の痛さに耐える田の草取りの労働を終え,足にはヒルをぶら下げながら,そして裸足に石ころが痛かったりで,歩き難い田圃道を,赤く染まる夕方を背に受けて,従兄弟の住まいのある,今はさつま川内市になっている平石の部落へと家路に着いた。小石に足を取られて覚束ないながら労働の後というのは何かすがすがしいものである。まして,もう直ぐ夕食と思えば心も弾む。従兄の相川良昭が夕陽に顔を照らされながら語り聞かせてくれた。
サイパン島守備隊が玉砕したことを,その戦闘の悲しみを。
そして,朗々と歌い聞かせてくれた。
「血に染まるサイパンの島,サイパンの島」
と終わるサイパン島玉砕の歌を。
「空襲」など邪魔なばかりで,爆弾も,焼夷弾も,そして機銃掃射を受けてさえ「命」への危機感もなく,桑の実ちぎりに,雑魚捕りに,模型飛行機に,と遊び呆けていた子供の私が戦況を知る由もない。
良昭の語るサイパンの悲劇とその悲劇を朗々と歌う夕日に映える横顔が神々しく,60年を経て曲も歌詞もその表情も,昨日のことのように思い出される。
多年心に残っているこの歌をフルコーラス知ろうと,過日従兄に
「良昭ちゃんが歌ってくれた"血に染まるサイパンの島,サイパンの島"ってあの歌,曲名は何ていうの,歌全曲歌えない?」
と聞いてみた。
「へぇー,そんなことあった? そんな歌,俺が歌ったかな,覚えてないヨ」
とのこと。この国賊め!だ。誰かこの曲と歌詞の全てを教えて下さい。

サイパンは観光の島,その他の巡礼の地でもあるやもしれません。
しかし,聖地であります。夫を失った御婦人の聖地であります。そして,平穏の中に戦の悲しみを歌い聞かせてもらった遠き日の私の心の聖地でもあります。
「サイパン島 玉砕の歌」が見つかったら,友人から「音痴ってんじゃないんだけど,ものすごい下手糞っていうんだよな」といわれる僕ではありますが,下手糞なりに覚えて練習して,そして歌い込んで,勇士の眠り安らけきを願って「サイパン島 玉砕の歌」奉納の巡礼に出かけたい,と願っています。


平成20年3月