鴻志会休会の辞

 会長 内野 経一郎

第一次鴻志会のこと

昭和40年弁護士登録、修業期間1年1ヶ月で藤田一伯弁護士と二人で東京第一法律事務所という、名前は大きいが小さな4坪の事務所を代々木の裏町に構えた。
 アルバイトを募集したら、ドー開けるなり「ナーンだ、こんな小ちぇところか」と飛び込んで来のが、中大に入学したばかりの武藤功君だ。司法試験を受験するというので、たしか、翌42年から鴻志会と名付けて彼の仲間十人ばかりと勉強会をはじめた。
 毎週日曜日に公共の福祉会館などの一室をジプシーしながら、不都合のときたまに講師を頼むこともあったと思うが、殆どボクが講師でゼミをやっていた。
 そのうち学生運動が激しくなり、S君など「歴史や経済の勉強せずにこんなことやって何になるんですか」と毒づいて、まるで勉強どころではない。そんなのは(良くもないが)良いとして、遂に「先生、今日カルチェ・ラタンに行って交番襲撃しますから、捕まったらお願いします」だ。これでは司法試験など夢の又夢だ。
 そんなワケでいつしか自然消滅してしまった。
 最終的に合格したのは武藤君と静岡の清水光康君二人のみときている。空疎な駄法螺吹いていては「それ(学生運動)はそれ、これ(受験勉強)はこれ」というだけの説得力がなかったという反省と、「水辺に馬を連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」と言い訳し、そして又「時代だったな」という「逃げ」もある。

第二次鴻志会 

 弁護士になって15年目 この鴻志会をはじめた。そのときの思い入れと、そして今を語ってみたい。
 「はじめにコトバありき」、とはいうが、浮世のことは、「はじめにお金ありき」だ。子供5人を抱えて青息吐息の書生弁護士を神は見捨てなかった。

当時、東京近郊の土地に地上権が設定され、その地上権が売却された事案があった。典型的な世に云う「地面師」の仕事だ。

 ホテルのコーヒーショップの薄暗いところで土地賃貸借契約書にサインして、判は相手方に渡して捺してもらいました。それ以外に一切サインしたことも実印を捺したこともない、というのが本人尋問の結果であった。
 しかし、どうみても本人の筆跡の地上権設定の為の委任状であった。証拠の写しを示して
 「このサインしたことありませんか」
 「私の字のようだけど書いた覚えはない」とのこと。
 そこに仁平志奈子弁護士が、相手方弁護士に、原本を見せてください、と求めた。
 土地賃貸借契約書と委任状はカーボン式の複写用紙であった。光の方に透かしてみると、(土地賃貸借契約書と委任状は)上に契約書、下に委任状が敷いてありピッタリと一致することが明らかになった。
 地面師の手口が立証され、勝訴的和解によって億も二桁に近い土地が依頼者の許に返ってきた。
 当時としては(いまでもそうですが)異例の千万円単位の報酬をもらうことになった。
 この機会を逃しては司法研究室を作るというささやかな夢実現の機会はないと思い、設立に踏み切った。

原点は、松戸白門会司法会計研究室にある。許されて入室できたのは大学2年、昭和31年の秋も終わる頃であった。全寮制の司法試験受験のための司法研究室である。

前年も入室試験を受験したのだが確か英語と論文で何も書けずに落とされた。
 合格のときであったか前年であったか、論文の問題が「法の目的は何か」というのであった。
 研究室に入室して、既に入室していた同級生のM君がアリストテレスの平均的正義と配分的正義が、といって流れるようにレクチャーしてくれるのを聴きながら、他人様はいろんなこと知っているものだと、自分の関知しない他人事のように思ったことを憶えている。
 そんなわけで、研究室に入室する時は法律のホの字も知らないどころか関心さえなかった。三流の私立大学(高校時代の友人にこう云われていた)に入学してめげ、無為に過ごす退屈に退屈しての「暇つぶし入室」であった。
 当時学研連(学術研究団体連合)と呼ばれていた学内の司法試験受験団体の勉強の様は、「外出をしないように片マユを削って勉強する」という「神話」があったが、それ程のことはなかった。としても、しかし、白門会に入室して鍛えられた。

白門会時代への郷愁と反省

生活を締めて身体と頭脳と精神を鍛える快感―とその成果―への想い止み難く、弁護士になってからも、いつか全寮制の受験研究室がつくりたいと思っていた。
 全寮制というのは生活万般共にするのだから仲間とのかかわりが全人格をさらけ出すことになる。生活全てを共にするので誤魔化しやズルがバレテしまう。立居振舞い、言葉遣い、同僚や社会への目配り気配りなど全てにマットーな生活を強いられる。又、怠けたり邪な気持をもつと居づらくなってしまうが、自らを鍛えるなら仲間からの尊敬を集め居心地がよくなる。こんな形で人間の鍛錬になる。

司法試験の受験勉強はよるべなく、体も精神も寂寥として物悲しく、一刻も早く逃れたいのに逃げ道のない閉塞感に圧し潰されそうであった。
 しかし、その閉塞状態に於ける勉強が新知識を学び、考え、自分を鍛えて純化する作用もしたように思う。学ぶこと、克己することは人格を養うが、遊ぶこと、怠けることは得てして人格を損なうものである。

合格したのは大学卒業後4年目であった。その年に26才を迎えようとしていた。その間、懶惰、自堕落、奔放、放蕩三昧。緊張のない、いい加減な受験生活であった。まだら模様に努力したところは多少は人格の形成はできたやも知れないが、人格の破壊も進み不等式は後者を「より大」とした筈だ。

充実した受験生活

入室は秋も終わる頃で、今週から日曜日の会社法から答練を受けよ、とのことであった。いきなり会社法といわれてもまだ教わってないどころか、本も持っていない。田中誠二先生の「会社法」というテキストを買ってきて、読むこともなく少しだけ読んでみた。サッパリ分からないところと、書いてある文章の意味だけ少し分かるところとあった。
 答練では何も書けず白紙で出したが、少し分かるところが出たらしく講評の一部に理解できるところもあって、そうか、こうやって訳も判らず噛りついて勉強するもんなのだなと思った。それにしても何も書けない答練の2時間が更に続くのだが、そのつらさ、情けなさ、そして絶望感を勉強のエネルギーに転化するエネルギーが要った。

白門会の誇りとしたところは、海に突き落として、さ泳げ、といった形でいきなりベテラン受験生と一緒に答練を受けさせ、ゼミを組ませるのに誰も分からないとか難しいとか決して弱音をはかなかったことである。
 身体でも精神でも知性でも、強靭で研ぎ澄まされたものは極限までイジメテ得られる。オリンピック優勝のスポーツ選手だって極限まで練習して超一流になったろうし、ノーベル賞受賞者だって寝食を忘れて研究に打込んだ筈だ。
 手取り足取り、オンブにダッコに肩車、ではひ弱で使い物にならない未熟な成果物しか得られまい。「おままごと」では実生活の用にはたつまい。

人々に対して己を出さず、積極的に人間関係の調整を心掛ける「やさしさ」も法曹の役割の大きな部分を占める。しかし、その「やさしさ」は、世の不法にひるむ言訳になってはならない。身を挺して不法を許さない、闘う勇気を求められていること、イーリングの飽かず説くところである。

先輩方は主な条文は全て誦んじて居られ、教科書は1020回と繰返し読んで居られ「読書百遍意自ら通ず」の趣であった。更にこれに留まらず試験委員の論文や判例評論もよく読んで先生の考え方を理解しようと努めておられ、教科書で理解できないところをお尋ねすると、「それは兼子さんの『判例民訴の何処此処』に『民事法研究の何処此処とか』に載っているよ」と我々に語りかけて下さった。
 憲法の授業で学問とは知の体系である、と教わった。先輩方が、意義、要件、効果という受験必須知識を徹底的に身につけながらもそこに止まらず、我妻民法、兼子民訴、団藤刑法、刑訴という風に、当代最高の知性の視点からの体系的思考を極められる識見の広さ、深さへの尊敬をもった。

私が入室したときはその年に小竹耕、山崎恵美子の二先輩が既に合格して居られたが、「去年までこんなことやっていて本当に受かるんかいな」と心細い思いでやっていたと申される。
 不安に苛まれながらも己を信じ、ひたすら己を磨いていく、そんな白門会の勉強態度が好きだった。

人生どのステージに於いても不安はつきものだが、試験に於いて暗中模索する不安は大変なものだ。失敗すれば人生が狂いかねない。これを克服して毎日机に向かうことの苦しさ、そして、それを乗り越えて勉強される先輩方への尊敬は大きかった。
 ゼミ、答練はおろか研究室で寸分の隙もないように勉強し、更に食堂でも新聞読み場でも談論風発、法律から離れられない。そんな先輩方の驥尾にふして怠け怠け勉強のマネゴトをした。
 最後の1年だけは年明けまで大学院の卒業の為に2年分の単位論文と修士論文作成のため受験勉強できずで、後半半年は体も頭もパンクするギリギリまで受験勉強してようやくに合格した。

白門会へちょっぴり注文

こんな理由で白門会“万歳”で白門会“命”である。唯、受験生活に不足感をもつ部分もあった。後に大学院に入学して、学会に参加し、小野清一郎先生がドイツ語でジョークを云われ、皆がドッと笑うのに何のことか分からない淋しさ空虚さが忘れられない。
 ドイツ語でジョークが云えたり、英語を操っての碧眼金髪の恋人をもつ先輩のないこと物足りなかった。
 又、法解釈学を学ぶのだから当然のこととはいえ「知の体系」も民法でいえば、例えば、取引の安全の重視か私的権利の尊重かという解釈学の視点に於いて、我妻先生は取引の安全を重視する立場に立つという議論が限界であった。
 法解釈の前提たる国家観や人間観に議論が及ぶと、「そりゃ立法論だよ」「そんなの試験に出ないよ」と法解釈学の枠から一歩も出ることがなかったのは見事でもあったが、大言壮言の趣味人としては物足りなくもあった。
 一頃の寮内の流行語に「教養がないな」というのがあった位だから、先輩方も“教養”に背を向けて居られたのではなかったのだが、「one thing at a time」で受験に専念されていたのだ。

そして、これも受験生活中のことだが、ある先輩があるとき寮に来られて、「内容証明一本で100万円だよ」と自慢されたことがあった。今で云えば1000万円以上稼いだ、となるのだろう。その表情に弁護士としての誇りでなく、どことなく胡散臭さを感じ取ったことがあった。それを一緒に聞いた他の室員も、今迄憧れていたその先輩への尊敬がそこはかとなく損なわれたように感じた。さればこそ、私も長じて、弁護士になっても白門会の仲間から蔑みの目で見られることは避けようと心掛けたことであった。

鴻志会の夢と現実

この白門会の伝統を現代に生かそう。自分はめげて遊びに呆けた。学問も人格もスカスカの俺の青春の反省の上に。そして自分が先輩方に物足りない思いをした部分を克服した研究室を求めたい。そんな思いで作ったのが鴻志会なのだ。
 そんなワケで白門会研究室の素晴らしさ、即ち、よるべなさ、不安をポケットに仕舞い込んで甘ったれたことを云わず、考えず、当代最高の法解釈学の体系に挑み、団体生活を通じて自ら学び後輩も鍛える、という濃密な自己鍛錬と人間関係の形成される研究室をつくりたかった。
 そのうえに更に、白門会を越える充実感あるものたるべく法解釈学の体系を解釈論の枠以上の視点から、異文化も取込んだ人間観、国家観をもった幅広い学問的関心のうえに解釈学の体系を築いて実務を目指す人材を養成したいと思った。
 そこで、鴻志会入会のガイダンスでこの理を飽かず説いた。

こんな思いから古い会員には記憶あろうが江南善之先生のローマ法、村上淳一先生のドイツ法、大久保治男先生の日本法制史などの講座を組んだ。しかし、会員の反応は今ひとつであった。
 又、実務というか答練の講師も行方国雄弁護士の鋭い法感覚、これぞ法の醍醐味だと心服してきいたが、会員からは何いっているのか分からない、あんな先生困ると苦情が出てしまった。
 訳の分からない議論でも泣きながらついていくのが法律学の勉強だ、と思い込んで居る私には、鋭い論理をこれ以上削れない少ない言葉で、全てを論じ尽くす芸術的とも思える行方先生の美しさを理解してもらえず、クレームとなったのが淋しく思えた。手取り足取りと美しくない教え方が求められているのだと。

又、会員とカリキュラムの作り方についても、予備校の答練日程に合わせて欲しいとか、会の運営についても、模範答案の配布を希望されるなど意識のズレが生じて自分で指導力を以って、合格に責任をもつだけのことがしてやれないことが分かってきた。
 とすれば、仲間意識をもって同じ議論をして切磋琢磨すればそれで足りる。その為の場を提供しよう。仲間意識を持つことは、一面では仲間の厳しい視線にさらされていることでもある。将来実務についたとき、軌道を踏み外さない為の相互監視的機能を営むし、更にお互い尊敬し、信頼し合うことになれば協力し合うこともあり得るという、積極的機能も営むだろう。何よりも仲間と切磋琢磨することは合格の為に、又人格形成に資する。

鴻志会創立の趣旨は、積極的に法の更なる地平を切り拓く創造的法曹の養成を目指したのである。しかし、現実にはとてもそんな夢の実現は叶わない、せめて法曹として邪な道に軌道を踏み外さない相互信頼の人間関係が養成され、維持される場となるならば納得しよう、と趣旨目的をトーンダウンさせて継続してきた。

答練うけず実質的に貸机的利用に終わった会員のあったことは、何故もっと魅力的な答練を組めなかったかと、反省点である。しかし、入会に際し「答練うけずに、机だけ貸してくれ」という要望が寄せられたが、それはお断りした。それでは知的共通の場を持った仲間たり得ないのであって、断ったのは正解だったと信じている。

こんな鴻志会の趣旨から、せめて合格者には視野を拡げてもらおうと、「プレ修習」を思いたち、合格者研修として判、検事、事業家との懇談会食を企画した。しかし、私の人脈人選が貧しかったのか、合格者に更に魅力的な時が待っていたのか、人気今一つで沙汰止みとなり、研修旅行だけが残った。

猿でも出来るという反省

「田舎者」意識の劣等感から高校時代、東京の偉い先生の講演を聴きに行くことが多かった。東京住まいになっても不勉強が心配で時々講演会を聴きに行く。
 もう大分前に、水上勉の水俣病に関する講演を聴きに行ったことがあった。その要旨は、ずっと水俣にかかわってきた熊本大学の先生が、チッソから出る水銀の化学式と患者から採取した水銀とつながらない。それがどうつながるか研究している、という話をきいて真面目に研究してくれる人が居ると感動した。
 しかし、今それがつながる為の研究を重ねるということで、被害者の救済を遅らせ、事態を悪化させる機能を営んでいたのだと思う。善意でやることが全て正しいとは限らない。
 という講演を思い出している。

私のこの鴻志会にかけた夢が観念的で、内容が薄く、継続的に実行できなかったこと、現実には参加してくれた諸君を傷つける結果に終わったのではないか、水上勉のいう熊本大学の先生のような、真意はともかく結果としての負の機能を営んだのではないかと反省もし、残念で悔いが残る。

会員OBへのメッセージ

 今ようやく、ロースクールという形で幅広い学問的関心をもった法曹の養成、という方向への一歩を踏み出したように思う。
 書店の法律書の棚に学生向けの基礎法や外国法そして、法実務、周辺諸学との法との関連など多様な書物が並び、私の予想を越えた幅広い人間的能力を備えた法曹が後進として続いてくれる予感を持っている。
 自然科学、人文科学、社会科学の成果を身につけ、多様な文化的視点をもって、現在の法とあるべき法とを常に思惟しながら、自らの視点で法を運用する実務家を養成せざるを得ない国家的環境になってきたのだろう。
 私が叶えようとした夢は町のたった一人の弁護士のよくするところでなく、国家的事業であったのだと今思う。
 時代の変化に対応する力量不足を自覚して鴻志会も今少時“幕間”を求めることとした。


公爵      人間はありのままの人生と折合をつけて行かねばならぬのだ。
セルバンデス  私は今迄、ありのままの人生をいやと言う程、この目で見て来たのです。苦しみ、みじめさ、ひもじさ! 信じられないほどの残酷さなど、酒場から聞こえる歌声も、世の中の吹きだまりから洩れる唸き声も聞いてきた。

私は軍人でしたから戦場で倒れる者も、又、捕虜として捕われ、むちうたれて、ぢりぢりと死んで行く者も、この目で見て来ました。息を引取る仲間をこの両の腕に抱いたこともある。人生を素直に受け入れた人間が、皆、こうしてみじめに死んでいってしまう。栄光も遺言も何もなく・・・彼等の目はうつろに見開いたまま、何故、何故こうして死ぬのかと聞いていたのではない。何故こんなみじめな人生を何のために生きてきたのかと聞いていたのだ。

人生自体が気狂いじみているとしたら、一体本当の狂気とは何だ本当の狂気とは。夢に溺れて現実をみないのも狂気かも知れぬ。現実のみを追って夢を持たぬのも狂気だ。だが一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折合をつけてしまって、あるべき姿の為に戦わない事だ。』
                                            (ラ・マンチャの男)

日本の、そして人類の向かうところ何処や、その為に現在為すべきことは何か、我国司法界の片隅から地球を見据えて「あるがままの人生に折合をつけてしまって、あるべき姿のために戦わないこと」を拒否する、そんな法曹こそが鴻志会の夢であった。

名にし負はば いざ言問はむ鴻志会
    わが想い 未だ生きてありやなしやと

 今様、ドン・キホーテは「夢に溺れて現実をみない狂気」25年間の第二幕を降ろした。
 現実に根ざして夢を追う鴻志会の第三幕を予告しておく。

 見果てぬこと承知で、私の夢に付合ってくれた事務所の仁平女王陛下に感謝の誠を捧げ、鴻志会の名を以って羽ばたいて行った諸君が鴻志会創設の趣旨を生かしてくれることへの期待、切なるものがある。

                                  公開日 平成17年1月26日