法を学ぶ意味


 人は皆、自分の立場でしかものを考えられないものだ。
 年よりくさく、古くさく、自分の思いから抜け出られない硬さかもしれないが、若い諸君に法を学ぶ「熱さ」を期待したい。

 私は法学部に入学して『権利のための闘争』(イェーリング著・日置憲郎訳・岩波文庫)に出会ってやっと法を学ぶ意味を納得した。

 「法の目的は平和である。しかし、それに至る手段は闘争である」

 と言ってみても、今では浮いてしまうのかもしれないが、読んだ時の発見と納得、法学部学生を続けられる学生の素であった。
 そして、時代背景からも当時の学生の多くがそうであって、この小冊子に目を通さない者はいなかった。

 イェーリングは日常の話題であった。

 この本が法学部学生の古典定番であって、これなくして七面倒くさい解釈に入ることはできないものと信じて疑わなかった。

 イェーリングがいかなる偉大な法学者か学ぶところがない。
  しかし、先生方が憧れを以ってイェーリングと呼ばわるのを幾度聞かされたことか。
 内容は分からないながらも大したものらしいと見当はつけている。

 そして、主著『Geist des romischen Rechits』(『ローマ法の精神』)の序文に

 「ローマは三度世界を征服した。
  一度はその世界帝国において、
  二度はキリスト教の普及において、
  そして三度はローマ法によって」

 と記されていることは聞き知っていて、その偉大さの理解の支えとしたものだ。

 ところが、過日、私の事務所を訪ねてくれた修習生8名全員が
 イェーリングという名も『権利のための闘争』という書名も知らなかった。 

 溌剌たる若さと合格の喜びと自信に満ち溢れ、まぶしく見えていた修習生が、なんとも心もとなくも見えてきて、
 若き日に教壇から語りかける先生の『Der Kampf ums Recht』(『権利のための闘争』)という書名への
 感動と憧れについて語りそびれてしまった。

 くどいが、思い出話に付き合ってくれ。

 少し長くなるが、『権利のための闘争』の冒頭部分と結びの部分を掲げておく。

 
 法の目標は平和であり、これに達する手段は闘争である。
 法が不法の側からの侵害に対して用意せねばならぬ間は − しかもそれは
 この世の存する限り続くであろう − 法に闘争を避けるわけにはいかない。
 法の生涯は闘争である、諸所の民族の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。

 この世における一切の法は闘い取られたものである。
 あらゆる重要な法規はまずこれに抗争する者の手からもぎ取られねばならなかった。
 そうして民族の権利たると個人の権利たるとを問わず、全て権利はこれが主張に対する不断の用意を前提とする。
 法は単なる思想ではなくて、生ける力である。
 さればこそ正義の女神は一方の手には権利を図る衡器を持ち、他方の手には権利を主張する剣を握っているのである。
 衡器ない剣はむきだしの暴力であり、剣のない衡器は法の無力である。
 両者は相俟ってその用をなすのであって、完全な法律状態なるものは正義の女神の剣を揮う力がその衡器を扱う
 熟練の度と相比肩するところにのみ存する。

 法は不断の勤労であり、しかも一人国家権力の勤労たるにとどまらないで、全民族の勤労である。
 法の全生命を一目に見渡せば、我々の眼前には全国民の休みなき角逐と奮闘との演劇が表れるのであって、
 それは経済的及び精神的生産の領域において全国民の活動が示すとまさしく同様の光景である。
 自分の権利を主張せねばならぬ地位に立ち至った各人は何れもこの国民的作業に参与し、
 地上における法理念の実現にあたって各々その微力を致すのである。

 ここまでが冒頭部分であり、次が結びである。

 
 私が本書に展開した条件の存する場合には、個人に対してもまた民族に対しても
 この闘争をもってその義務だとするのである。
 ヘルバーとが法概念から取り除こうとする闘争の要素こそ、
 この概念の最も本然的な、これに永遠に内在する要素である。
 −
 闘争は法の永遠の勤労である。勤労がなければ所有権がないのと同様に、闘争がなければ法はない。
 「汝の額に汗して汝は汝の麺包を食わなければならない」という原則に、同等の真理を持って、
 「闘争のうちに汝は汝の権利を見出さなければならない」という他の原則が対立している。
 法がその闘争準備を廃する瞬間から、法そのものが廃される。
 −
 法についてもまた次のような詩人の言葉が当てはまるわけである。曰く

 人知の最後の断案はかうだ。
 凡そ生活でも自由でも日々これをかち得て、
 初めてこれを享有することができる。


 いま、イェーリングを実感している。
 弁護士40年を経て法が常に不法からの侵害を受けていて、これを守るために多くの犠牲者を出しながら、
 そして苦しみながら支えておられる方々の多いことに敬意を表している。

 今、学生諸君がどんな動機付けで法律学を学んでいるのだろうか。
 誰の何という本に感動して勉強しているのだろうか。
 それとも、そんな感動とか意味付けなどという泥臭い話はおいといて、
 もっと軽やかに難なく法律の勉強に入っているのだろうか。
 そして、大仰なことを考えた我々の時代よりはるかに確かな足取りで、
 確実・正確な法運用を学んでいるように思うので、その秘訣を折があったら
 教えを請いたい、と羨ましくもまた物足りなくも思っている。

 若い諸君に、今日において法を学ぶ意味を、そして法について大言壮語を熱く聞かせてもらいたい。
 峯村先生が教壇から我々学生に「法学徒たるもの」と語りかけられて、
 「俺法学徒?法学徒と俺らに言われるのはお世辞が過ぎるか、見当違いだ」と小さくなったりしながらも、
 熱く法律学に憧れた頃の思いに老書生を連れ戻してくれる若き「法学徒」の憧れを聞かせてもらいたい。