母校日向学院中学校 鳥集重孝 先生の訃報に接して

先生の訃報に接しました。

たしか私達が日向学院中学校2年生のときに先生が赴任して来られたと記憶しています。私は今年70歳になりますから57年間ご指導をいただいたことになります。

ついせんだて先生お元気でいらっしゃるかなぁと同級生で噂し合っていたところでした。卒業後も折りにふれて励まし御指導くださいました恩師は先生が一番だったと思います。

僕の記憶では赴任されたとき既にご結婚され、お子様がいらっしゃったように思います。何故って、あの生活感の希薄な、いうならば浮世離れした学院の中で先生唯一人が生活感の漂う「生活人」であられ、先生に接して初めて生きる苦しさや悲しみを感じ取ることができたからです。

当然、当時は幼くてその生活のなかにある生きる喜びのあることまでは感じとり得ませんでした。

「生活実感」という言葉がありますが、今その先にささやかな喜びや希望のあることを感じとって居ります。

転校して行った吉田徳太郎君は同じバレー部でしたが、運動神経がよく跳躍力があり、跳ねることが得意であったこと、少し口が突き出した感じがあって、あだ名が「びき太郎」でした。「びき太郎」とは我宮崎では蛙のことです。

あるとき先生の国語は活用形の授業で、少しダレ気味でした。そこに先生が「吉田、“旗を掲げる“の活用形を言え」と当てられました。吉田君は「はい。げ、げ、げる、ける、げれ、げろ」と少しの疑いもなく答えた瞬間、教室中が爆笑の渦に巻き込まれました。

泣き出しそうな吉田君の表情が今でも忘れられません。そんな吉田君にお構いなく先生はいつものようにポーカーフェイスでニコニコして授業をすすめて居られました。

 

あのとき吉田君に当てられたのは吉田君のあだ名を何も知らず、考えずの偶然だったのか、沈滞した教室の空気の活性化のための故意であったのかと、あのときのことを先生にお尋ねする機会を失したことが残念です。

多分先生のことですから今日までも、吉田徳太郎君のあだ名が「びき太郎」であったことも、教室中の爆笑の意味も理解せず仕舞いであられたことと思います。

なぜならば、先生は生活人であられると同時に、超人的な「世間知らず」でもあられましたから。

先生お世話になりました。さようなら。

(先生への弔電を推敲したものです。)

平成18年7月17日通夜には参加しましたが翌18日の葬儀は法廷で出席できませんでした。

                                                              平成18年8月2日公開